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オタクですがママ業やってます

絶賛、子育て中の甘党・コーヒー派、BL好き。子育て情報・趣味など綴ります。

相模原の施設で起きた大量虐殺事件について、母として思うこと

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なんとも恐ろしい事件です。

何がって

 

独自の正義感を声高にうたうものが、異常ではあるものの、
その者なりに筋を通している理論にしたがって計画を練り、
それに従って
異常性を自覚していながら、実行に移す、ということ。

 

平然と多数の命を奪い、それが世の中の平和に繋がると言い
自分は誰もが思っていて行動に移せないことを
やってのけた英雄であって
この後も、普通に世の中に受け入れてもらえて生きていける

 

そう考えている、ということ。

 

被害者が障がい者であるとか以前に
こうした考えの人が世の中に存在し、考えを実際に行動に移し、
それを英雄であるかのように自慢する、ということが恐ろしいです。

 

人は皆、自分なりの正義を持っていて
その理想や理念に従って生きていると思う。
私だってそう。

 

でも「一人で生きている訳じゃない」

この思いは頭の中にないのだろうか?


誰かの手を借りているから、自分が生きていける。
誰かが傍に居るから感じられる喜びがある。

誰かを大切にしたい、と思う心があるから
誰かに手を差し伸べる瞬間がある。

障壁があるから人は乗り越えようとする。
問題を解決するために、人は知恵を絞り、技術が発展していく。


視力が落ちて裸眼では見えない。
でも、メガネが開発された。
それを使えば見えるようになる。

年を取って思うように動けないが、

薬や人の力を借り、子や孫と共に生きる。

 

社会とは、こうした誰かの手を借りて
よりよい生き方を発見していけるものであるべきなのではないか。

 

誰かに思いを伝えたい、と思うから伝える方法を模索する。

苦労して伝えるから、伝わった時、相手から反応が返ってきた時の喜びが

何倍にも膨れあがる。

 

この犯人は「努力して挫折して、それでも努力して僅かな成功に大きな喜びを得た」という成功体験がないのだろうか?


「意思疎通ができないのは相手が悪い」

そうではない。

「意思疎通できないのは、自分の技の未熟さが問題」

「将来的に治療したり、意思疎通する方法が開発される可能性はある」

どうしてそれに気付けないのか。

 

施設に勤めていて、噛みつかれたり、罵声を浴びせられたり、

暴力を受けたりした経験があり、給料も安くてやってられない!

これだけ尽くしてやっているのに、感謝されない!

 

そんな風に思うなら、どんな仕事もできない人間だと思う。

そんなの、どんな仕事に就いていたって日常的に感じること。

自分の思い通りになることなんて、まず、ない。

だいたい、健常者相手にしてたって信じられないクレーム処理に追われることだって普通にある。こっちのほうが理不尽きわまりないよ。

明らかに相手に非があったって、頭をさげ、許しを乞い、こちらの求めに応じてもらわなければならないことは仕事をしていたら普通にあることだ。

それをヨシとできるだけの高給をもらっている人なんて居るのか?!

 

問題を超えようとする意志、技術力、能力というものが人にはあるはず。
どうして、人の能力を向上させる方向に思考が働かないのか。


日本は法治国家であり、個人に権利や自由があるが義務がある。
ルールを守る、という大前提を崩してはならない。

その枠を自ら外れている人間は、日本という社会に適合していない。
塀の中に囲う、という、いわゆる排除措置を受ける。

 

どうして、自分は許される。
生きていける。
受け入れられる、と思ったのだろう。


この犯人は
高度な理想を掲げていて英雄を気取っているつもりなのだろうが、
余りに稚拙で愚かで非現実的な妄想だ。

 


今の社会は健常者を基準に作られている。
私がそれを痛感したのは「妊娠した時」だ。
情けないが、普通・健常者から僅かに外れる、という経験をして初めて感じ、理解したこともたくさんあった。

 

妊婦には酷な状況が至る所に存在するし、
他人からは邪魔者扱いされ、危害を加えられることさえある。

人によっては職や地位を奪われ、捨て駒的な扱いをされることだってある。

身を削る思いをして妊娠期間を過ごしていても、無事に生まれてこないこともあり
命をこの世に産み落としてやれなかったことが自分の責任であると思え、慟哭することだってある(したこともある)。

 

一番苦しんでいるのは本人で、自力ではどうしようもなかった事なのに
親や親戚の心ない言葉で精神の限界に追い詰められることもある。


妊娠してほんの僅かに「健常者の枠」から外れただけで、どれだけの辛い思いをしただろう。どれだけのことを感じただろう。

 

・この世の中は健常者を基準にできている。
・どれだけの健常者が「健常者から外れた人」に無関心か。
・健常者でない=社会の枠から即時、排除される、ということ
・所詮、全ては他人事
・本人やその人を支える人が、どれだけ強い心を持っていないといけないか
・本人やその人を支える人が、どれだけ能動的に、知的に、計算高く生きなければならないか

 

自分が強くならなければいけない。
人を頼ることはできない。
下心なく、頼ることを許してくれる人と巡り会えたら、それは運命の出会いだ。

 

そんな風に感じた。
そして、命が生まれることの奇跡、尊さ、美しさは言葉で語り尽くせない。

 

自由がきかない体で、命を産み落とすまでの重責に堪え、
失神と覚醒を繰り返す30時間を乗り越え、
身動きできない体で我が子の顔を見た瞬間の喜びと感謝と感激。
あれは経験者でなければ解らないと思う。

 

赤子というのは、誰かに命丸ごと預けなければ生きていけない。
小さく弱い命なのに、全身全霊の力を込め、力強く、無垢で、無邪気で、下心も何もなく、ただ無心に愛を求めてくる。

母親の脳というのは、ソレに夢中になるように作られているのだ、と感じた経験が母親には多かれ少なかれ、あるのではないだろうか。

 

そうはいっても、子育ては命を削る日々が延々と続く。

自分の生活・人生そのものが自分を中心に回らない、
自由というものが全くない、真っ暗なトンネルの中をさまよい続ける日々が続く。
(自分のすぐ傍には、自分の人生を自分の都合だけで生きている人間がたくさんいるというのに!!!!)

 

親として、子を育てるという責任。

これらを乗り越えながら、母親は今日も子を見守り、育てている。


母親や父親、関わる親族や周囲の人にとっては、
その子が健常者であろうが、障がい者であろうが変わりは無い。

 

むしろ障がい者で障壁が多くあればあるほど、
人は知恵を絞り、試行錯誤し、生きる道を探す。

(もちろん、障がい者といわれる本人も、生まれた時からずっと努力を続けている)

 

必死になって一日一日を乗り越え、小さな成功に喜びを見いだし、

何年も、何十年も大勢の人が苦労し、苦しみ、希望を探し、生きてきたのに

「お前の子は生きる価値がない」
「害をなすものでしかない」

と、ある日、突然、一方的に決めつけられる。

それだけではない。
価値を否定され、葬り去られ、

「苦痛から解放されてよかっただろう? 俺様に感謝しろ」

と、求めてもいないことに感謝を求められる。


障がい者本人だけでなく、
周囲の人の人生そのものも蹂躙する行為。


どれほど残虐で残酷で非道な行為か、想像を絶する。


この犯人には
どんな体験をさせれば行為の非道さと残忍さを理解させられるのだろう?
罪の重さを自覚しないまま、刑罰を受けさせるのは許せないと思えてしまう。

 

どんな風に育つとこのような犯人の思考になってしまうのか。
どうして、そんな人が人に手を差し伸べる職についていたのか。
身近に、そんな思考の人が普通の顔をして生活しているかもしれない、という恐怖。

 

そして、事件に関する記事には必ず

「遺族は心の中では犯人に感謝しているはず」

「自分で殺せなかったのをヤってくれて嬉しいはず」

そんなコメントが堂々と書き込まれていることに恐怖を感じる。

 

発達に色々と問題を抱える子供達と多く接する機会がある者の一人として、

流産を経験し、

子供を産み育てている母親として、

色々な意味で恐怖や理不尽さや憤りを感じた事件だ。

 

いろいろな人が生きていける、

多様性に富んだ社会ができることを望んでいます。

 

亡くなられた方のご冥福をお祈りすると共に、

体や心に深い傷を負われた方々の、一日も早い回復をお祈り致します。